今日は、わざわざ東京よりありがとうございます。
第1回目のインタビュー形式での対談をおこないます。真っ先に頭に浮かんだのは川村さんでした。
初めて川村さんの事を知ったのは、雑誌「ELLE DECO」で川村さんの特集があって、JMギャラリーさんに常設されているということで電話をしたら、女性の方が川村さんの連絡先を教えてくれました。すぐに電話をし、お会いする事になりました。よく覚えているのですが、渋谷の東口の喫茶店で待ち合わせをしました。そして、1号店で今でも壁にかざってある“植物の灯り”を4つ発注しました。初めてお会いしたあの時から14、5年経ちます。2号店ができるときもぜひ川村さんのライトをかざりたいと思い、今回も12個発注させていただいて、快く引き受けていただきました。この植物の灯りは空間を創るにあたり大切なものの1つになっています。そういう中で対談の第1回目は川村さんだなと。
年末の忙しい中、今回お越しいただきました。

以下 (N)メルシーズ 中田 (K)川村さん
(N)川村さんは10代〜60代まで、どのような流れでここまでたどりつきましたか?とても興味があります。

(K)あまり考えていなかったなぁ。何かいきあたりばったりでさ。何か、こう、まぁ親に感謝してるって事だけど。好きにやらせてもらったって事。
学生時代はバンドをしてて、ステージにあがって、人から拍手される、それがもう麻薬みたいになっちゃって、何かこう人を喜ばせる、それから喜んでもらえた後にもらえる拍手、そういうものが自分に印象に強くて、何かずっとそんな事をやってきた気がするのね。そして、卒業してから、テレビ局へ就職して、ドラマ作って、何かを創る喜び、そして人を喜ばせる、そんな事がずっと好きで、ただ何も考えないで、好きな事ばっかりやってきたみたいなね。ただ、テレビ局は好きで入ったんだけど、テレビは視聴率など厳しい世界で、結局時間に追われる生活で。それが自分の自由にならないという事で、結局テレビ局を辞めて田舎暮らしを始めてしまった。東京へ戻ってきて、手先が器用だったせいか空間デザインの美術の仕事をしているうちに、この作品“植物の灯り”ができあがったの。この植物の灯りも、これも結局ボランティアでイベント会場の美術を担当してて。環境問題のイベントをやる時は、リサイクルとか誰もがやると思うのね。例えばペットボトルを使ったり。でも結局、ペットボトルって何か冷たいし、和紙を巻いても冷たいし。そんなのである日、紅葉の時期、もみじの木の葉がすごいきれいだったんで、これ何かいけそうだなって。そういう中で生まれてきた作品。ただ好きな事をずっとやってきたって事かなぁ。

(N)その作品“植物の灯り”が広まったという言い方がいいのか分かりませんが、色々な人の目に触れながら植物の灯りという事では、第一人者であると思うのですが30代の頃にはもう制作にかかってたんですか?

(K)いや全然。僕がこれを始めたのは、45、46歳の頃です。田舎暮らしをしてたけど、その時はこういう発想はしていなかった。ただ、山歩き、山遊びをしてたから、そうねぇ、自然の植物の凄さっていうのは、その時に知ったのかなぁ。何ていうのだろう。例えば春に山に入るとね、今、林業がけっこうさびれてて、山に入って森をちゃんときれいにしていないんだよね。だから野生がはびこってて、ツル性のものが山の入り口にあって。僕はそれを越えて行こうと思って、ツタのすだれみたいなものを自分でくぐって、顔を上げた途端に目の前に大木があって、それに野生のフジがからまってて、それがさ、ものすごくきれいで、結局もう人が山の中に入らないから見られていない、人に視感されていないというか、まぁ人に見られていようが同じかもしれないけど、人の目に触れていない自然の凄さ、きれいさ、まぁ獣達は見ているんだろうけど、そういうきれいさが目に焼きついてて、僕の中には記憶の中に刻みこまれてたと思うんだよね。だから、何か自然のすごさ、きれいさに東京に帰っても気がつくようなったし。
最初におこなった展覧会でもお客さんに「どこの山に住んでいるの?」「この葉っぱ、どこで拾うの?」って聞かれたけど「これキラー通りです」って。僕、ほら、青山で生まれて育ったから、あの辺りの街路樹って、結構きれいで。そんな事が面白くてね。人が驚いたり、そういう事が魅力で、結局今も作品を創っているのかなぁ。それに植物ってほら、この地球上では僕らよりずっと先輩っていうのかな、人間以前から生きているし、それだけ生き物としては大人だと思うし。だから僕たち人間は、休みになると自然の中に入って、癒されようと入って、それを拒否する事なく受け入れてくれる。そういう自然の凄さ、奥深さを感じてます。

(N)30代とは?

(K)外国へ行ったり、人との出会いがあって30代以降は決まったような気がする。外国へ行って凄くショックをうけたのは、学生たちは皆勉強している。日本とは逆で、大学は入るのは簡単だけど出るのは難しい。あの時、70年代ってアメリカ、ヨーロッパはヒッピーの時代で、新しい文化が生まれた時代で。今の基本となっているオーガニックとか自然志向とか、そういうものが始まっている。そういう事がショックというか、僕にとっても非常にインパクトがあって、自分自身、今まで日本にいた時の価値観から解き放たれて、新しい価値観を自分で見て、やっぱりそれを自分の中で取り入れよう思ったし。それと、テレビ時代にすごく素敵な人達と出会ったのね。ショーケンだったり、田中絹代さんだったり、倉本聰さんだったり。そういう人達の生き方や仕事の仕方に触れて、それ以降の僕の人生の大きな基になっている。

(N)僕が出会ったのは、川村さんが40代の時でしたが40代はどうでしたか?

(K)40代は植物の灯りを創ることに夢中になってた。ちょうど、この作品を創るようになって、ちょうどその頃って、日本でもオーガニックや自然志向の流れがきてたし。僕は雑誌とか取材とか自分で売り込んだことは一度もなかった。それだけ珍しかったのか、取材も沢山きた。そういうタイミングがあったっていうか。自分は美術の学校を出たとか、そういう事でもないし、素人に近いものだったんだけど。それなのに、僕が創ったものに、人が来て喜んでもらえて感謝までされて…。それだけで嬉しかった。それだけで幸せだった。たまに僕の展覧会のギャラリーに行って、お客さんと話してみると「どこから来たの?」って聞くと、例えば鹿児島から来たとか、名古屋から来たとか広島から来たとか言うのね。東京に用事があって?って聞くと、雑誌を見て僕の作品を見に来たって言うのね。信じられなくってね。何か、そういうものが僕のモチベーションになってきたね。

(N)今、実際50代を経て60代を迎えられて、今の喜びっていうのは作品を見た方が純粋に心を揺さぶられているっていう姿をみるのが喜びに繋がっているんですか?どうなんでしょうか?

(K)あのねぇ、50代の頃って結構そういう事あったけど、60代になってそういうことよりも、何だろう、人が僕の創ったものからヒントを得て、次のものに進化させていって欲しいと思っているし、僕が創り出したものを、学校の先生が見にきたり、NPOで子供たちのサポートをしている人達が来て、子供たちの前でワークショップを行って欲しい、とか。そういう意見に、僕の耳が段々ダンボになっているというか。何かを次に伝えたいというのかなぁ、そういう気持ちの方が大きくなってきた気がする。僕のこんな仕事以外にも他の皆さんもみんな仕事を持ってて、60代になれば皆そういう気持ちになるんじゃないかと思うんだけどね。

(N)何を次の世代に伝えられるか、という事を自然と考えるようになるんですかね。

(K)と思うね。僕は環境問題を30年近くやっているので、そういうものをより具体的に伝えていきたいっていう事もあるし。特に今年は、色々としんどい事いっぱいあったから…今年の展覧会はいつもに比べて、僕の作品が特別いいと思わないんだけど、階段を上がってきて、会場を見た途端にわぁっていう声がいつもより多い気がしてるのね。だからやっぱり、皆結構しんどかったんだろうなぁって。僕の作品の中に入って、目にして、自然に癒されるっていう気持ちが強いのかなぁ、って凄く思っている。

(N)3.11以降、色々な方が大なり小なり傷を負い、川村さんの作品を見る目も変わってきていると思うんですよね。作品創りにおいては、何か変わった事はありますか?

(K)あのねぇ、今年は震災もあったし、うちの母も展覧会の前に容体が悪くなっちゃって、あーまずいなぁって思って。時間にも追われていたし…。何か自分の想いみたいなものが、何か単純に、今回の作品創りはいつもより純粋だったかもしれない。今回の展覧会のお客さんの溜め息っていうか、わぁっていう声を聞いて、今回、自分が純粋だったんだなぁって…。これを始めた頃の近い気持ちでいられたのかなぁって。それに気がついたっていうかね、創り終わってお客さんの声を聞いて、あー結構初心に戻ってた、っていうかね。戻ろうと思ってたんじゃなくて、自然に自分の環境をそうさせたって。そういう事に気がついて、うん、そうじゃなきゃあ、って改めて今回そう思ったんですよ。僕はもう年も年だし、そんなに頑張らなくても、もうゆっくりやりたいなぁって思ってて、これからは本当に気持ち込めてやっていきたいなぁって。そして、それが結局は人の気持ちをノックするの。こっちの“純粋さ”みたいなものが一番大事だっていう事に改めて気がついた。そうしていきたいなぁって。何か、こんな事言うと照れちゃうけどね(笑)でも、もうこういう年になったから、そういう照れも、もういいやって。ハハ。

(N)僕らの今の時代は、日本は低成長の時代に入り、少子高齢化も進み、若者は仕事も思うような所に入れず、希望すらもてない若者も増えています。川村さんから20代の若者に伝えたい事は、どのような事がありますか?

(K)僕なんかが人にあーだこーだ言うのはおこがましい話なんだけど、そうねぇ、好きな事をやるのが一番いいんじゃない。義務教育で、皆、なんだろう、天職っていうか、皆、天賦の才って持っていると思う、生まれながらにして。それを、今の義務教育によって芽を摘まれてしまうみたいな気がする。父が死んでから自分のルーツを知りたくて、家が侍だった家柄なので、ルーツを調べたくて、お葬式の時に和尚さんに家の資料があるはずだと思って尋ねたの。ただみな、燃え散ったみたいで、戦争でね。それで図書館に通って調べ始めたの。でも結局どーでもよくなっちゃって。江戸の職人さんとか町民とか、侍たちの暮らしぶりとか、徳川時代の事がとっても面白くなっちゃって。江戸時代って皆、親がやってたって事で、要するに義務教育ではないからね。皆、小さい頃から職業が決められてたって事もあるし、何か自分の才能、自分の出来る事に集中してたと思うのね。そういう時代って、とっても幸せのような気がする。お金で暮らしてない、お金で仕事をしていないっていうのは素晴らしいし、何か浮世絵なんか見ても、あの頃の作家たちにしろ、職人にしろ、みんな貧しかったし、今生きていれば無形文化財なるような人達ばかりでしょ。人間の幸せって、自分の好きな事をまっとうする事が一番幸せなような気がする。もちろん、この現代でお金ってとても重要だし、お金が無いって不安だし、それがあるから一概にお金の事は考えないでって言うのはいきすぎた考えになるけど、自分の好きな仕事だったら誰でもそうだけど、苦労を苦労と思わないし、そういう方が幸せなような気がする。バブルを体験した日本人は、そういう事に気がつきはじめた若い人達も出てきたんじゃないのかなって。
そしてやっぱり地球の事を考えて、物は有限だって事。自分たちの国は特別であるって事。特別っていうのはまた別の意味もあって、江戸時代がそうなんだけど、一番東にある国だから文化が一番行き着く所、日本人は文化を爛熟させた国民でもあるし、そして震災の後でも分かるように外国人がびっくりするような助け合いとか、特別な、なんだろう、人間性っていうか道徳感っていうかを持っている国民でしょう。今までは経済的にリーダーシップをとってた国でもあるが、これから先は、もっと人間としての、もっと凛とした人間性、そういうもので、世界中のリーダーとなる資質を持っていると思うから、それを大事にして、それを生かして世界のリーダーになれればいいなぁって。そういう国の若い人達だから、そのあたりをもっと大きく育てていくべきだ。来年なんて世界中がもっとおかしくなると思うから。今年、震災を体験して、また再認識した日本人の国民性みたいなものを、もっともっと大きくしたら、そういう不安も無くなっていくような気がする。そこが唯一の、日本の、これから波乱万丈な世の中になると思うけど、日本人が生き残っていく一つの道ではないかな。それだけの資質があるから、それを大事にするべきだと思う。これってすぐにつくれるものではないからね。外国人があれだけびっくりするって凄いと思うんでね。
(対談:2011.12.28   インタビュアー:メルシーズ 中田)